北区の帰宅部の意訳

映画の感想を書きます(希望)

『窓ぎわのトットちゃん』の感想

 多くの人にとってアニメーション映画大豊作の年だったと思いますが、年末にとんでもないのが来てしまった。忙しい。

八鍬新之介

 シンエイ動画の、しんのすけなのに『ドラえもん』担当、でお馴染みの八鍬監督。歴代の『ドラえもん』映画作品の中でも明らかに頭一つ抜けた面白さがあり、「来年は八鍬監督だといいな~」などと考えてた頃にやってきた『窓ぎわのトットちゃん』映画化のニュース。監督が有能すぎて『ドラえもん』から飛び立ってしまった。
 結論から言うと『窓ぎわのトットちゃん』は期待以上の大傑作だったので、「これだけ立派なものを作ってしまってはおそらく『ドラえもん』にはもう戻らない……」という印象。八鍬監督は原恵一に憧れてシンエイ動画に入ったらしいけど、本作の成功で原恵一ルートが始まった気がする。八鍬ドラが観れないのは残念だけど、まぁ何かしらの新作が観れるならオッケーです。本作も最初は「いやぁ私としては正直『ドラえもん』の方が……」とか思ってたんですが、マジで文句のつけようのない作品であった。グウ。

運命の男、泰明ちゃん

 八鍬監督の『ドラえもん』映画はどれもゲストキャラクターの少年とのび太の友情が美しくて観ていて天に召される気持ちになるんだけど、本作の泰明ちゃん、そして彼との交流にはそのバイブスを感じた。『ドラえもん』のゲストキャラはどれも美少年で「のび太とのBLですか?」という雰囲気すらあったんですが、本作は異性ということで逆にそういうニュアンスが抜け落ち、逆に尊さのみが浮かび上がっていたと思う。
 プール、木登り、自転車での下り坂、と重力からの解放もしくは重力に逆らうアクションが繰り返され、彼の小児麻痺という不自由さを「引きずる脚」に集中させたのも見事な手腕。そんな彼を苦しめる重力が、終盤では絶望する2人に降りしきる雨として表現される。しかし、絶望し、頭を下げるトットちゃんに対して泰明ちゃんは足下の水溜まりから空想のチカラで救済の道を見つけ出す。トモエ学園での教育の賜物であり、プールの場面とも水という共通項を感じる。
 そんな雨のシーン(てか『雨に唄えば』なんだけど)。気を落とし、視線を落とすが、その水溜まりから希望へと転換していく……という流れが『ドラえもん 月面探査記』の名場面とそっくりなんですよね。旅立つ勇気が出ないスネ夫が下を向くが水面に映る月を見て勇気を振り絞る(遅刻した理由を「前髪が決まらなくて」にするのが熱い)。あの作品は脚本が別にいるが、インタビューでこの場面は八鍬監督のアイディアと発言されているので、八鍬監督のイズムを強く感じるシーンなのですが、それと同じ水による下から上への反転が本作でも出てきて『月面探査記』ファンとして感慨深い。
 このように『ドラえもん』との類似をつい探してしまうのですが、絶対に『ドラえもん』では出来なかったイベントが本作にはある。それが死別。そりゃそんな予感はしてたし、ヒヨコのくだりとか布石としてキレイなんだけど、子供が死んだらそりゃ泣くに決まってるでしょうが!!(キレ)

冒頭の注意書き

 差別用語とかそういうのが入ってると思ってたんですが、蓋を開けてみればおそらく集団全裸の場面でしょうね。校庭で剥き出しなのでビックリした。あれから100年も経ってないことに驚くばかり。海外出品とかテレビ放送とかややこしくなりそうで「無理して入れなくても……」と思ったんですが、泰明ちゃんがプールに入り、重力から解放され、そのまま空想の世界へと没入していく場面があまりに美しく、それでいて間違いなく本作の核心に触れる場面なので注意書き入れるしかなかったんでしょうね。雑CGIで下着か水着が増えたりする海外版とかありそう。あの場面をまるっとカットするのはさすがに無理があると思うので。

子供視点

 まったく関係ない作品を引き合いに出して申し訳ないのですが、非八鍬回である『ドラえもん 宝島』は終盤になると突然ゲストキャラの親が悦に浸るような話を展開するのでかなり苦手。そしてその今井監督の次作『新恐竜』ではのび太が父親役を演じることになるのでやっぱり苦手……。そんな今井監督が来年の『ドラえもん』を担当するのですが、どうなのでしょうか。ゲストキャラが女の子なので少し期待度が上がってきてます。
 とにかく、本作『窓ぎわのトットちゃん』はそれとは対照的に子供視点が徹底される。もちろん一部大人のみの場面もあるが、本当に例外的。本作で描かれるのは、あくまでも子供が生活の合間で偶然覗き見てしまった大人の世界。そのバランスが秀逸だったが、終盤になると徐々に、世界全体に戦争という大人(男)の要素が多くなって……という不気味さ。その戦争も子供視点なので直接的な説明は全然ないのだが、映画として観れば分かるし、おそらく当事者である子供も同じように言葉ではなく空気で感じ取っていたのだろう、というバランス。
 本作には子供の姿に大人たちが思わず涙を流す場面が多く存在するのだが、その多くが「なんか勝手に泣いてる」という距離感。それが大人の観客としては一番涙を誘うんですよね……。「汚れた服」のくだりとかマジで泣いてしまったんですが、同じ劇場にいた子供の客が親に「なんで泣いてるの~?」とクソデカボイスで質問していて笑ってしまった。笑ったけど、彼女の質問は本作を象徴するものだったと思う。本作はまさに子供が「なんで泣いてるの?」となる作品。

教育者

 トットちゃんは注意散漫で、次々と話がそれていき、それでいてすぐに空想の世界へと旅立ってしまう。今見るとモロにADHDだと思うんですが、彼女に対してあまりに全うな大人が現れ、適切な教育を与えていくので素晴らしい。小林先生は延々と話がそれていくトットちゃんの話をとにかく聞く、待つ。最初の場面で「この人なら間違いない!!」と思わせてくれるし、劇中でも母親がそのように気づく。
 「肥溜めの肥全部抜く」の場面では、あまりに簡素な反応で、何なら無視してるようにも感じるのだが、トットちゃんの下校後、母への報告の中で、ほっといたがアフターケアはしっかりしたというのが描かれる。この距離感。そして、「高橋くんのしっぽ」の場面では、小林先生がただの放任主義ではなく、放任に見える中で実はものすごく細やかに心配りしてると明かされる。ここでもトットちゃんが自分のことではなく、他人のことについて後から気づく(実際にしっぽイジリが行われた時点では何も感じてない)。この距離感。……大人観客としてはその後の運動会の場面で大石先生への救済が描かれるのが優しくて泣きました。
 「相撲はさすがに危険なので腕相撲」の場面もそうだけど、ただ否定するだけでは終わらない。深夜(ほぼ明け方)の列車のくだりもそう。決して説教臭くはないが優れた教育者というのを明確にすることで、本作を教育論についての映画としても成立させる。トモエ学園が焼失するのを見届けた小林先生の瞳に宿る炎が焼失の炎よりも長く灯り続ける場面とか感動的でしたね。まぁ、ちょっと急で「誰に言ってんの!?」とはなるんだけど。

さらにいくつもの『この世界の片隅に

 背景や美術の美しさが本作の大きな魅力で、そこに戦時中という時代考証が加わることで、多くの人にとって『この世界の片隅に』を連想するのは不可避だったと思います。ちなみに、八鍬監督が黒柳徹子に本作の企画を持ちかけたのは2016年らしく、『この世界の片隅に』公開年なんですよね。まぁ、あの映画の公開は11月なので八鍬監督が鑑賞後なのかは不明なのですが、関係性を疑ってしまう……。てか、すずさんも思わず空想の世界へ没入する癖があったり、ADHD的な側面を持って描かれてたので、共通点は時代の一致だけではないと思います。
 ここまで書いといてなんですが、部外者の素人が何でもかんでもADHDだと言うのは少し暴力的なので鑑賞の姿勢としてどこまでが適切なのか悩むところです……。
 それはさておき、(東京の)子供視点が徹底されてる本作だからこそ、迫り来る戦争の雰囲気や、気づけば周囲が戦争の空気に包まれていたことの不気味さは本作の独自の魅力。子供だから理屈として正しく理解はしてないけど、社会の変化を何となく感じ取っていて……という距離感が『この世界の片隅に』とは違った不気味さであり、迫真さだったと思います。

チンドン屋さん

 原作未読なので「それほど窓ぎわが関係ねぇな?」とか思ったんですが、本作で濃厚な窓ぎわ要素だったのが冒頭のチンドン屋さん。正直学校のそばにあんなん来たらトットちゃんじゃなくて注意がそれると思うんですが、それはそれ。
 そんなチンドン屋さんが映画の最後にもう一度出てくる。あれはおそらくトットちゃんがつらい環境の中で見た幻想であり(あんな人気のない道でチンドンしても仕方ない)、過去の記憶に基づく希望だと思うんですが、そこでトットちゃんが列車の戸を開け、外に出ようとするが、弟(妹?)の泣き声を聞きながら現実に戻る。彼女の成長を感じさせると同時に、もう空想の世界が広がっていかないことに一抹の寂しさも感じる良いシーンだったと思います。イマジナリーチンドン屋との別れが大人への成長。また、チンドン屋さんがエンターテイメントの象徴だと考えるならば、後にテレビの中の人になるトットちゃんが「観る」から「やる」へと気持ちを改める場面だったようにも感じられる。外からのカメラで箱(の中の四角い枠)にいる彼女を映す……というオリジンオチ。


 終わり。めっちゃ楽しみにしてたし、期待してたんだけど、あまりに傑作すぎて「もう『ドラえもん』には帰ってこないんだね……」と勝手に寂しくなるめんどくさいファンでした。今井監督は不安だけど、それでも来年の『ドラえもん』楽しみです。題材も普通に面白そうだし、予告にも思いの外惹かれてます。
 余談。ドラ映画から旅立っていった今大忙しの監督としては渡辺歩監督もいて、その話も書こうかと思ったんですが、渡辺監督は『緑の巨人伝』という自他ともに認める大爆死があるので話が大きくそれる。あれは毎年一本という『ドラえもん』特有の地獄スケジュールが大きな原因だと思うので、『ドラえもん』を離れても成功を続けて本当に良かったです。